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人は見た目?

[2017.05.01]

都立高校の大半では頭髪の自由は認めず、場合によっては幼少期の写真と保護者からの保証書までも提出を迫るという記事が出ていました。今どきまだこんなことを、と驚きを禁じ得ませんが、おそらく学校の中というのはまだまだ多くのところで、社会とは違う時間軸や支配体制によって成り立っているのでしょう。
このようなことが起こる背景にはいくつかの可能性が考えられます。
➀日本人たるもの黒髪でなければならず、欧米人を模したパーマなどもっての外である、という戦前並みの単一民族的思想
➁自己表現は許さず、画一的な人格形成を目指す教育スタイル
➂人を見た目で判断することを教育者が率先して行う実地教育
➃教師の憂さ晴らし
外見に対してのこのようなくどいほどの規制は、「髪が茶色でカールしているから」といってイジメの対象にすることと大差ありません。国際化、という言葉がもはや古臭くてほとんど使う人がいなくなったくらい世界の垣根は低くなり、なおかつ世界で通用する人材を育てることが課題であると多方面で言われているにもかかわらず、高校ではいまだこのレベルにあるということなのでしょう。国家主義の台頭が世界各地で危惧されていますが、それとどこか似たような匂いのするものでもあります。
人は皆見た目が違うことは当然です。髪のあるなしや色、目の色、肌の色、体毛が目立つかどうかといったことから手足や指の数まで人それぞれと言えます。私たちは他者との違いを認め、お互いを尊重すべきですし、そこに嫌悪や差別は極力差し挟むべきではないことを皆知っています。
また頭髪を含め体は自己表現の場の一部でもあります。自分がどう見られたいか、自分はどうありたいかといったことはとても大事な思考であり、それを育むことを見守るのも教育の一つでしょう。「お前の顔にこの髪の毛があるのはおかしい」という決めつけと押し付けは、教育現場、ことに公立学校では望ましくないもののように思います。
いっそ先生たちも好きな髪形にして、化粧もしてみれば良いのに(もうしてたりして・・)。

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